波乗りクリニック

一般内科・心療内科・在宅医療

「死んでしまえば、皆、仏さま」

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無断転載禁止です。
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医療職をやっていると、人の死に関わることが多くなります。

同じ医師でも、専門の科によっては、あまり人の生き死にに関わらないこともありますが、それは例外で、特に私のように在宅医療にも首を突っ込んでいる立場では「死」を避けて通ることは出来ません。

数週間あるいは数ヶ月以内に確実に訪れるであろう「死」を感じながら、日々生活している患者さんもいます。

死期が近づくと人は悟りを開くのか、私の受け持つほとんどの患者さんは人格者で、傍にいて耳を傾けるだけで勉強になることも少なくありません。「自分が生きていても仕方がないなぁ。この人が生き残った方が世のためだなぁ」などと、妙な劣等感・劣等コンプレックスを抱かされてしまうケースも少なくありません。

その一方で、チョットだけ「やねこい」なぁと思ってしまう患者さんの場合もあります。
(「やねこい」=「大変だ。しつこい。etc」といった、どちらかというとネガティブな意味合いの山口弁です)

わがままで自己中心的、それまでも人に迷惑をかけ通しで、親戚や家族から疎まれ、エキセントリックな性格故に友人もいない。そこまで行くと、死期が近づいたからといって、急に人格者にも成れないわけです。

そういった場合、こちらもかなり振り回され、疲弊してしまうことがあります。

ときには、患者さんやその家族とあまりよい関係を築けずに終わってしまう。お互いに誤解したまま終わってしまうこともあるわけです。

ただ、そんなときにもやがて終わりが来ます。患者さんの「死」というのは否応もなくやってくるわけですね。

そんなチョットだけ「やねこい」患者さんでも、お亡くなりになると、どこからともなく、良い方の噂話が這い出でて、「実はこんないいところもあって」、とか「どこそこでは皆に愛されていたらしい」と耳にします。

いなくてよい人間、100%すべての他人に嫌われている人間というのもいないわけで、そんな人を見送った後では、「もう少し、私に出来ることはなかったか?」、「今回の私の仕事はこれでよかったのか?」と自問自答を繰り返すことになります。

「死んでしまえば、皆、仏さま」という、日本の仏教特有の信仰に納得してしまう瞬間です。あまり難しく考えず、そこの一点に落とし込んでしまえる発想は、こんな所から来ているのかもしれません。